ときわブログTokiwa Blog

教員ブログ

ブログで書くということ

「ブログの記事を書いてもらえませんか」という執筆依頼をいただいて1時間。
じつはこの間、ずっとパソコンの前でフリーズしていました。

『ブログに何を書けばいいのだろう?』

フリーテーマなので何を書いてもいいわけなのですが、全く手が動きません。
記事を書きたくないわけでも、記事のネタが無いわけでもありません。
自分のFacebookには頻繁に投稿をしていますし、LINEやInstagramなどのSNSも利用しています。
自分の文章をいつもWeb上にあげているのに、ブログの記事を書こうとすると手が動かないのです。

それではブログとSNSの違いはどこにあるのでしょうか。
今パソコンの前にいるので、とりあえずグーグルで「ブログ SNS 違い」と調べてみました。
ストック型とフロー型、情報発信とコミュニケーション・・・なるほど、色々な違いがあるんだなぁ~。
では、私はなぜブログの記事を書くことができないのか。正確に言えば、なぜ手が動かないのでしょうか。

自分なりにちょっと考えてみると「宛先」というキーワードにたどり着きました。
ブログには宛先がなく、SNSには宛先がある。ブログは不特定多数の人が読むことを前提としているが、
SNSは自分と何らかの関係にある人が読むことを前提としている。
オープンメディアとクローズメディアの違いとも言えそうですが、それとはどこか違う気もします。
たとえば、私が研究者として書く論文は近年ネット上で誰でも簡単に読むことができるようになっており、
広い意味でオープンメディアと言えるでしょう。
しかし、論文を書くときに論理的に行き詰まることはあっても、今のように手が動かないことはありません。
それは論文にも宛先があるからだと思うのです。

それでは「宛先」とは何か。それは他者を想定できるかどうかということです。
FacebookやLINEなどのSNS、論文、これらは文章を書く時点で読者(他者)を想定しています。
明確な宛先がなく海に漂うメッセージボトルにも、それを受け取る他者が想定されています。
書くという行為の筆先は、つねに/すでに他者に向けられたものなのでしょう。
しかし、ブログにおいてそういった筆先の他者を想定することは難しいのではないでしょうか。
そしてそれは想像力の問題とは違うところにあるように思うのです。

ブログのタイトルをクリックし、このページを読んでくれるであろう個々の読者を
想像することはもちろんできます。
しかし、ネットにおいて他者は想像を優に超えて姿を現します。「炎上」という現象に見られるように、
ネットにおいて他者は想像の彼方で現れてくるのです。それは「負」の方向にも働けば
「正」の方向にも働きますが、いずれにせよ膨大なエネルギーをもった他者が私たちの
此岸と(あるいは)彼岸を超えて立ち現れてくるのです。

近代において「群衆」というものに注目が集まる中で人々の集合が問い直されたように、
今ネットテクノロジーの広がりの中であらためて「他者」が問い直されているように思います。
そうした他者の問い直しの中で、私はまだその姿を捉えることができず、
ブログを書くことができないのではないでしょうか。
そもそもそれを捉えようとすること自体が不可能な試みなのかもしれませんが・・・

ブログで〈書く〉ということ、それは他者を〈欠く〉という行為なのかもしれません。
しかし、確かにその筆先で〈搔く〉ことをしている。その掻き傷から現れてくる他者にむけて、
私は書かなければならい。ブログで書くということは、そういうことなのかもしれません。

とはいえ、気がつけば字数もかなり増え、いつの間にかブログ記事らしきものができあがっています。
「ブログで書くということ」について書かれたこのブログ記事は、他者を捉え損ねながら、
まだ見ぬ他者に触発されて書かれたものです。私はその行間に緩やかに絡み取られながら、
Webを通してその他者に出会うことを待つほかはないのでしょう。