ときわブログTokiwa Blog
教員ブログ
インターネットの活用について独白
2015年07月27日(月)
ブログ未経験者は、ブログが何たるかを知らないので、「ブログ→インターネット」という連想ゲームから、
インターネットについてつらつらと書き述べたいと思います。
インターネットというのはほんとに便利なもので、ちょっと検索すれば、必要な(必要そうな)情報が即座に手に入ります。
またインターネットは単にバーチャル空間を構成しているだけでなく、私たちの実生活のあちこち
(例えば、確定申告を行えたり、それまで運命の出逢いだった本との出逢いがより効率的で確実なものになったり、
塾に行かずに無料で塾の講義に参加できたり、普段は物静かな人がバーチャル空間では言論人となって
満足することでなおも実生活で物静かでいられるなど)に浸透し、もはや社会インフラの一部であり、私たちの
身体の一部のごときものとなっています。
参考までにインターネット活用の推移をお示しします。個人または世帯の活用の推移を見てみると2000年前後の
伸びが凄まじいですね。年代別に見てみると、10代、20代、30代は早い段階で9割以上がインターネットを活用
するようになって、40代のインターネット活用者もそれを追うように増えています。50代は、
そのかなり後を追う形になっていますが、現在では9割以上の方々がインターネットを活用していることが
わかります。
思い返せば、私が携帯電話を初めて手にしたのも、インターネット活用がぐんと伸びた2000年前後で、
docomoのP502iとかだったと記憶しています。当時は、iモードなるものをかろうじて使うことができる
程度で、情報は身の周りにあるもので十分事足りる気分でいられました。それが今ではスマートフォンを
華麗に使い、あれやこれや検索し、必要のない情報まで集めることができるようになりました。
方向音痴の私が、自信をもって未知の世界に足を運ぶことができるのは、まさにスマートフォン様のおかげです。
インターネットの有用性は、「私」の生きる世界を身軽にぐんと広げてくれます。しかしそれは一方で、
身軽さゆえに「身」を軽くしてしまう側面ももっています。PCや携帯電話やスマートフォンなどを通じて
サイバースペースなるバーチャル空間を生きるとき、「私」の身体は「『ここ』への繋縛から解き放たれた身体」
(大澤真幸『生権力の思想』筑摩書房、2013年、77頁)となるのです。「ここ」への繋縛から解き放たれた
身体は、ではどこをどのように浮遊するのでしょうか。
そもそもサイバースペースというのはどんな空間かといえば、言語(記号)がうじゃうじゃ蔓延るジャングルであり
(twitterなんかでは次から次へと言語が生産され、消費される)、そしてそれは、草木のように確かに大地から
生え伸びるものではなく、地に足のついていない、いつ反旗を翻すかわからないような、亡霊のごときものです
(だから、ソクラテスはエクリチュールを外部へと追いやったのでしょう)。重要なことは、「私」もまた、
サイバースペースに存する限り、亡霊の一人であり、常に無責任でいることができる、ということです。
湊かなえの小説が原作の映画『白雪姫殺人事件』(監督 中村義洋、脚本 林民夫)では、「ここ」に繋縛され、
それゆえに苦悩しながら、しかし幸せに生きようとする者(城野美姫)と、「ここ」への繋縛から逃避し、
言語空間の中を風雲児のごとく、しかし無責任に生きようとする者(赤星雄治)との対比が見事に描かれています。
結局は、赤星は、犯人の手によっていとも簡単に操られ風雲児に仕立てられていただけなのですが
(twitterの支持者たちにも反旗を翻され、糾弾され個人情報も垂れ流されるに至ります)、興味深いのは
映画のラストシーンです。
赤星は、城野を犯人扱いしたために城野の故郷に謝罪に訪れたとき、自分の目の前に城野美姫本人が
偶然にも現れたのですが、赤星はそれが城野美姫本人だと気づくことなく(一緒にいた同僚は気づいたのですが)、
その場を立ち去ってしまうのです。
問題は、なぜ赤星はそれが城野美姫だと気づくことができなかったのか、ということです。
それは、赤星が「ここ」に繋縛される世界(生々しい世界)を生きていないからだと思います。
二人は、生きる世界が異なるがために、交わることがないのです。
映画評論家でもない私が映画について語る違和感はお許しいただいて、これまでの話で何が言いたかったか
というと、インターネットは、確かにサイバースペースという新たな宇宙を作りだし、世界をスモールワールド化
して、様々な他者(顔も知らない、知らなくていい他者を含めて)とボーダレスに対話することを可能にして
くれました。現にインターネットは、アラブの人々に自由を得られる場を与え、結果としてアラブの春と呼ばれる
事態を起こしたわけです。しかしその力は、時として受け入れられない暴力にもなりうるわけです。
ではどういったときに、自由という力は受け入れられざる暴力に変身してしまうのでしょうか。
キーワードは「責任」だと思います。
サイバースペースを生きる身体は、「ここ」への繋縛から解き放たれることで、「ここ」に対する責任、
すなわち過去に生きた人々に対して応答する責任、同時代を生きる、特に声が小さく排除されてしまうような
人々に対して応答する責任、将来を生きる者に対して応答する責任を放棄する自由も得てしまうのです
(その自由を放棄する自由ももちろんもっていますが)。サイバースペースを当たり前のように生きる現代社会
では、自らが行使する自由が受け入れられざる暴力に変身してしまわないよう、「身」を軽いままにせず、
「ここ」という地にしっかりと足付けて、「責任」(新自由主義の論理における自己責任ではなく、
民主主義の論理における他者に対する責任)をもって言語空間を生きる必要があると考えます。
「ブログ→インターネット」という連想ゲームで始めた話で、まとまりのない話になりましたが、
これで教員ブログ執筆の責任は果たしたものとしたいと思います。