ときわブログTokiwa Blog

教員ブログ

研究ノート5 私の駆け出しの頃の思い出(医者ともあろう者が)

 私は初め小児科の医者として将来は開業するものばかりと思っていたのですが、小児科の教授には内緒で微生物学教室の扉を叩いたのが運の尽きというか、それからはずっと微生物学という基礎医学と関わり合いを持つことになりました。また当時微生物学講座教授であった中井益代先生がとりわけ私をかわいがってくれたというか気が合ったのでしょうか、居心地の良い教室で自由に実験や研究をさせていただきました(研究ノート1参照)。

 国際学会などにも3回ほど連れて行ってもらいました。1回目はタイのバンコクで、このことについては前回にお話ししました(研究ノート4参照)。2回目は孫文が卒業した香港中文大学での国際電子顕微鏡学会ですが、この時も前回同様に物見遊山のつもりでいましたところ、突然発表者の都合が悪くなって私が発表することになりました。発表までは1週間ほどしかありません。発表者のHIVのウイルスコアについての原稿を読むと英文がおかしかったりよく分からない箇所もあったりしたため、何とか自分の英語に修正して備えましたが自信がありませんでした。こういったこともあり発表当日は緊張していたのでしょうか、岡山大学医学部ウイルス学教授(当時)の新居先生が「これを使うと良く読めますよ」と言ってご自身のペンライトをお貸し下さいました。ところが真っ暗な中でペンライトを使うとほとんど読めませんし、段落がどこにあるのかも分かりません。結局ペンライトは使用せずに発表しましたが冷や汗ものでした。これ以後、学会発表ではペンライトを使わないようにしています。発表が良かったのかどうかは定かではありませんが今度は質疑に応え(答え)なければなりません。この時ほど英語力や英会話の必要性を感じたことはありませんでした。このことが後にJICA長期専門家として海外に出て行くきっかけとなったとも言えます。

 発表が終わって早々に、というか教授を学会場に残しておいて、われわれは九龍(カオルーン)付近の市内観光に繰り出しました。女人街やバードストリートなどを歩き回り、ファイアットホテルの中華レストランで夕食を摂りました。ファイアットホテルオーサカと同じ料理長ということで妹さんと来られていた研究生の女医さん(現在芦屋の打出で皮膚科・美容皮膚科開業)が日本で予約してくれていました。翌日はヤクルトの現地法人が予約してくれたミラマーホテルにある潮州料理店で食事をしましたが、何れも絶品でしたので領収書はヤクルトの方にお渡ししました。

 発表の翌日、教室員全員で九龍半島から香港島に渡り(当時は空港が九龍半島側にあったのでホテルもカオルーンホテル)、ビクトリアピークにトラム(ケーブルカー)を使って行ったり香港島をバスで観光して周ったりしました。この時、往きの飛行機から一緒だった常盤短大のM科学生さんも同行しています。何でも香港映画に興味があると言うことで何度も香港に来ていると言うことでした。このためかどうか分かりませんが留年もしていると言うことでした。その後彼女が常盤短大を無事卒業して臨床検査技師になったということは定かではありません。翌日、私は別行動で香港島のカレイ・ベイで会社を経営している父親の大学時代の友人に会う予定にしていました。電話連絡したところ東京に出張中でしたので、隣の香港ペニンシュラホテルなんかで時間を潰そうと思っていました。半パン姿で路上をうろうろしていると教室員に見つかってしまい、急遽ツアーに参加して教室員と一緒にマカオまで90分ほど掛けて高速艇で行くことになりました。リスボアホテルのカジノにも行きましたが突然のことでしたので半パン姿の私は中に入ることができません。この時、仲の良い女性の技術員の方が長ズボンと交換しましょうと言って下さいましたが丁重にお断りしました。ホテルアーケードで時間を潰す羽目になりましたが、ほとんどの教室員が賭けた金額が少額だったためでしょうか、皆さん「勝った、勝った」と喜んでいました。定番のマカオ市内観光にも行きましたが、途中でツアーバスのエアコンが故障して別のバスに乗り換えなければなりませんでした。ホテルで連絡橋やマカオグランプリが開催されるサーキット(市街)を眺めながらポルトガル料理も食べましたが、広東料理や潮州料理などことのほか香港料理がおいしかったこともあり余り印象に残っていません。