ときわブログTokiwa Blog

教員ブログ

「あの日」「あの時」から

 東日本大震災から3年6ヶ月を迎えて、改めて災害について考えてみた。災害は多様であるが、神戸で"あの日、あの時から"と言えば、被災経験をもつ人々にとっては、阪神・淡路大震災が思い浮かぶだろう。私もそのひとりであり、あの日、あの時から看護が果たす役割と、備えの教育のあり方について考え続けている。
 そうした中で、東日本大震災から1週間はたっただろうか、避難所で取材のマイクを向けられた被災者の言葉に私は息を飲んだ。「この土地にはもう住めない。海をコンクリートで固めてほしい。」、短いながらも悲痛な言葉であった。目の前に広がる海の幸によって生かされてきた住民から発せられた言葉が胸を貫いた。
 臨床で出会う患者さん達から「癌になるような胃はいらない」「歩けない足なんかいらない」という言葉を聴くことがある。自分に栄養を与え、命をつなぎ、生活を支えてきた身体であるにも関わらず、そう話される。こうした反応は、平時、災害時を通して、困難に直面した時に誰もがとる自然な反応なのだろう。人は、いつか自分に死を突きつける自然や自分の体によって生かされるという宿命のもとにある。
 看護が果たすべき役割は、人々が再び「海とともに生きていこう」「この体と共に生きていこう」「自分の価値に何ら変わりはない」と思える日が来ることを願い、人々の苦悩を感じ取りながら寄り添うことにこそあると考えている。それは災害時だけでなく、平時に病気を患い、障がいを持つ人々と接する場合にも同じである。
 看護者はケアを提供する専門職として、決して自分は他者にはなれないこと、即ち、他者との間に大きく深い隔たりがあることを知っている。その上で他者に近づき、人々の苦しみを緩和することを責務と自覚して行動する。行動を通して、看護者の身体に経験として刻印されてきた経験が年月を越えて看護の文脈を形成している。

 私は機会をみては被災地に足を運び、痛みを感じながら看護者の身体に刻印された災害看護実践についての貴重な経験を聴かせていただいている。今日も、そしてこれからも、語りに学びながら、長い文脈の中で、あの日、あの時を想い、明日の看護へと時間をつないでいる。